陶芸家・加藤唐九郎(1898~1985)は 80代の時テレビに出演し、ろくろから茶碗を取り出す場面で失敗した。
「これからまだしばらく生きないと調子がでてこないね」「年数をたくさん生きても努力が続かないとダメじゃない。途中で僕は怠けてしまったからね」
自嘲気味にそう言って笑う。彼ほどの作品や業績を残し、陶芸界をリードしてきた人物は多くない。そんな唐九郎が 80を過ぎてもまだ調子がでないという。
転機になった作品がいくつかある。志野茶碗「深むらさき」もそのひとつだが、これは氏が 83歳のときの作品である。「こういうものが出来たのは初めて。今後できるかどうか分からない。今後勉強してモノにしていきたい」と唐九郎 84歳の弁。
「ああ、そうですか」としか言えない若いアナウンサーの気持ちを代弁してこう補足する。「あなた方ぐらいになれば、研究なんかしなくても思い通りになんでも作れるでしょうと言われるが、そうじゃない。実際のところはね、失敗ばっかしとるんですわ。結局、まだ未成熟なんですね、年齢は別として」と白いヒゲの間から紅いくちびるをのぞかせた。
「作品を作っているときには夢がある。窯の口をあけて作品を取り出すときには胸がおどるし、脚がふるえる。フタが開くと同時に夢が破れてしまう、悲しいかな」と破顔一笑。
「窯とはどのようなものか?」と問われ、魔力をもった魔女のようにとらえがたいものだと唐九郎。そんな彼が 62歳のときに大事件を起こした。世にいう「永仁の壺事件」(えいにんのつぼじけん)。1960年に発覚した、古陶器の贋作事件である。
1959年、「永仁二年」(1294年)の銘をもつ瓶子(へいし)が、鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして国の重要文化財に指定された。しかしこの作品が唐九郎のものであると判明し、2年後に重要文化財の指定を解除され、重文指定を推薦していた文部技官が引責辞任をするなど、美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルになった。
業界やマスコミから唐九郎は糾弾され、織部焼きの人間国宝の座も剥奪された。それ以降、一切の公職から離れ、陶器の研究と制作ひと筋に打ち込むこととなる。
唐九郎人気は地に落ち、人間じゃないとまで言われた。その間ひたすら制作に打ち込んだ。焼き物に救いを求めたとも言えよう。その唐九郎が 11年後、名古屋で個展を開いた。今度は世にも稀な人であると絶賛された。
「芸術家は晩年の作品ほど優れていなければならない」が持論で、「焼き物をつくって己が救われるまで努力する。その結果救われなくても、それはしようがない」
★永仁の壺事件
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